岡松 孝男

開発途上国に対する医療支援

[小児外科医の国際医療支援]

岡松 孝男(日本小児外科学会名誉会員)

カンボジア難民救済医療支援:国際医療支援の始まり

国際的な医療支援というと一般には、災害、紛争などのおける緊急援助や、移植や内視鏡手術など先進医療技術の伝達、あるいは結核、ガンなどの予防医学の普及など、主として成人医学の普及、伝達を目的とすることが多い。

わが国として初めての経験である海外緊急医療支援である昭和55年の、カンボジア難民救済医療支援(Japan Medical Team: JMTの端緒となった)においても、当初その対象は成人の戦傷、感染症などを考えたチーム構成であった。私は第四次チーム(昭和大学)団長として同年8月末から12月中旬まで約4ヶ月タイ・カンボジア国境で難民救済医療に携わったが、この時も、たまたま自分が小児外科医であったということで、小児については殆ど考慮していなかった。昭和大学病院としてチームを構成するにあたって事前に約1ヶ月の現地視察を行なったが、先任チームのメンバーも日本のJICAや大使館職員からも小児医療の必要性については特に注意がなかった。

しかし、現地に着任して諸外国の医療チームのメンバー構成をみると多くのチームでは小児科医、産婦人科医などが含まれていることを知り、わが国の国際医療救援システムの未熟さを痛感した。しかし、私の専門が小児外科であることをUNHCR(国連難民対策弁務官事務所)の現地事務所に届けると、逆に日本では小児外科領域までカバーできるチームを送り込んだと大いに驚きと喜びをもって迎えられ、乳幼児の外(戦)傷、から炎症性疾患や鼡径ヘルニア、イレウス、腫瘍にいたるまであらゆる小児外科疾患がわれわれの所に送り込まれたり、低出生体重児の管理まで依頼されるようになった。そして充分な設備や器具がない中で、諸外国の小児科医、産科医などとあれこれ工夫をしたり、議論しながら難民の小児医療を行なったことが私のその後の小児外科医療に対する考え方に大きく影響を及ぼしている。

JICAでのエジプト・カイロ大学小児病院支援

難民救済医療から帰国後まもなく、エジプト・カイロ市にわが国が寄贈建設したカイロ大学小児病院において技術支援を行なうにあたり、その事前調査に加わるよう外務省からの依頼をいただいた。昭和57年11月にカイロ市に入ったが、当時エジプトは中東戦争終結後まもなくしかもその前年サダト大統領が暗殺されて、世情が暗澹としており電話は市内であってもなかなか通じないし停電も頻繁に起るという、ちょうど日本の終戦後昭和20年〜25年ごろの様な状態であった。また、カイロ大学における小児科のあり方は日本の小児科とは大きく異なっていて小児科は単科ではなく、呼吸器、消化器、アレルギーなど分野別に独立していることに当時のわれわれは驚きもし、この面ではわれわれより進んでいるのではとうらやましくも思ったりした。しかし小児外科分野は一般外科から分離独立してまもなくであったためか、小児科の各部門との連携がスムースにいかず、ことあるごとに対立(病棟の割り振りや、ICUの配分にいたるまで)していた。手術室に隣接して回復室とICUを設置しようとすると小児科の感染症のICUにしてしまうといった不都合なことが、小児科が絶対的な権力を持っているが故に平然と行なわれる。

このような場合、日本側に小児外科医がいることによって小児科の教授たちや院長(小児科教授のチェアーマン、後の教育大臣となった)に対して小児外科の術前後の患者管理の重要性と小児科と外科の密接な協力が将来の新生児科、新生児外科の発展につながる(当時のエジプトは新生児外科手術が適切に行なえる環境にはなかった)ことを説明し、小児病院における外科のあり方を理解してもらうことができたものと思われる。とはいえ「この病院は小児科病院としてわれわれが日本国政府に交渉して寄贈されたもので、外科は旧小児病院(道路を隔てて古い小児病院があり、そこに旧設備の手術室があり、小児外科の病室としては6床と4床の病室があるのみであった)で十分であるという小児科教授たちの考えを改めてもらうためには、小児外科の教授1人とスタッフ数名(准教授以下4〜5名)と小児外科の前任教授(カイロ大学の小児外科創設者)のグループでは大学内の勢力も弱く、年齢的にも小児科の教授たちに比して若かったため、非常にハードな交渉が続いた。ここでもし日本側に小児外科医が加わっていなければ、当然エジプトの小児科教授たちの意見に押し切られ、カイロ大学の小児病院は小児外科部門を欠く不完全なものとなっていたと思われる。また、エジプト側の代表となった院長が広い視野を持ち、きわめて強いリーダーシップの持ち主であったこともあり、カイロ大学の新小児病院は外科部門を完備することができた。私はその後、カイロ大学小児病院(CUPH)の小児外科部門を確立するために多い時には年間5回もカイロに通い、若いスタッフとともに臨床や、大学の各部署、あるいはエジプト共和国政府との交渉に力を注いだ。

その結果、1989年には小児循環器部門(検査部門、循環器外科を含む)を立ち上げ、1994年には小児救急部門をカイロ大学病院から分離独立させることに成功し、CUPHは中近東随一の小児病院にまで成長し、2003年に完全に日本政府が手を引いた後も新生児科、新生児外科を新設、近隣諸国の小児外科医師の教育、小児医療の支援を積極的に行ない、さらに小児悪性腫瘍センターをも併設するまでに成長した。なお、最近のエジプトの政治的混乱の中でも同病院は変わることなく運営されているとのことである。

再びカンボジアへ

1990年代に入るとカンボジアもポルポトとその一派は逮捕あるいは追放され政権は完全に民主化しカンボジアに平和が戻った。しかし、ポルポトとその一派の、知識層の完全消滅政策の後遺症は根深く、社会のあらゆる部門においてその指導者が欠如していた。ある社会の知識層がいなくなり、教育施設、病院などが消えてしまった社会を想像することは、通常の世界に住むものにとってはほとんど不可能である。内乱終結後にカンボジアの復興支援ということで、日本の民間団体が小学校を建設し寄贈することが盛んになって、色々な団体が小学校校舎の建設し寄贈したが、これを活用する教師が全く欠如していたため年配のお兄さん、お姉さんあるいはかろうじて生き残った村の長老さんが、教育にあたらなければならなかった。このため、私が視察に行ったときも小学校高学年を担任する教師が、分数の足し算を私のところにそっと聞きにくるということがままあった。医学教育の場においても同様で、カンボジア唯一の医科大学で、二百数十人の教授陣で、戦後に生き残れた医師は三十人に満たない状態で、大学も徹底的に破壊され政治犯収容所となっていたため、再開時には光学顕微鏡数台しかそろえることができなかったと言う。

そんな状況の中、フランス政府が主体となり医科大学の再建に乗り出し、それに伴い大学直属の国立小児病院を世界的なNGO団体であるWorld Vision Foundation(WV)が再建する運びとなった。しかし、WVが再建に協力できるのは小児内科系のみで、日本の支援もJICAを通しての母子医療センターにとどまり、小児外科再建については特に触れられなかった。しかし、小児病院建設にあたっては、外科部門の併設は不可欠との意見も強く小児外科の再建は日本のNGO団体である「国際開発救援財団:Foundation for International Development/Relief. FIDR」が推進することになった。カンボジアの若き外科医で小児外科を志す数人の医師が、欧米諸国のしかるべき施設で約2年間の小児外科研修を終えて帰ったのを機に、1998年FIDRでは小児外科手術棟(手術室2、準備室1、回復室1ほか脱衣所、医局、小規模外来診察室など)と、その設備を建設寄贈し、若手医師、看護師などの育成に協力しつつさらなる病棟の拡充、設備の補充などを行なうこととした。JICAなど、国の援助機関であれば日本のベテラン小児外科医を派遣し教育、指導にあてることが可能だが、民間団体では資金力も乏しくしかるべき小児外科医を派遣することはかなり難しい。さいわいハンガリーの小児外科医ラズロ・サイモン先生が協力してくれることとなり、彼が常駐し小児外科技術と諸設備の担当を依頼した。彼はハンガリーの医大を卒業後外科医を志しイギリスにわたり、小児外科の研修を受けた小児外科医で、奥様がカンボジア人であるためカンボジア語も堪能であるというNPHで小児外科医の指導、育成にあたるにはうってつけの人物であった。1990年代から2005年ごろまでのカンボジアにおける物資の不足、電力事情の悪さのなか、彼と3人の若きカンボジアの小児外科医の働きは涙ぐましいものがあり、われわれもその熱意にうたれて小児外科病棟の建設、小児外科教科書などの整備、カンボジア初の病院給食の実現、大学での小児外科講座の設立および地方の若き外科医を対象とした卒後小児外科研修制度の確立、政府に認可された小児外科認定医制度の立ち上げを全力で支援し、そのいずれも実現してきた。2001年には第38回日本小児外科学会佐伯守洋会長のご好意によりサイモン先生を学会に招聘し、カンボジア小児外科の実状を会員に訴えると同時に、彼自身も各施設の見学をし、日本の小児外科の現状をつぶさに見学し研修を受けた。その後も機会あるごとにカンボジア小児外科のリーダーを日本に招き小児外科施設で短期の研修を行なった。また、最近では日本の小児外科医である石井智浩先生がFIDR現地職員として1年間現地に滞在し活動を行なった結果、カンボジアの若手小児外科医のモチベーションも著しく向上し、地方の病院からの認定医研修希望者も増加し、さらに小児麻酔医の研修制度も発足し、新生児外科の発展に備え小児外科看護師の養成も企画されている。

アジア小児外科のリーダーとして成長した日本小児外科学会は、カンボジアなどの開発途上国の発展支援をもっと積極的に行なうべきであるという最近の機運から、田口智章教授は日本小児外科学会理事長としてNPHおよびカンボジアの地方病院を視察し、その後カンボジア小児外科学会での講演、NPHでの研修指導などを継続されている。

外部リンク

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